ロシアを巡り世界が揺れる昨今、ロシアで過ごした幼少期の記憶がまざまざと蘇ってきました。今から50年近く前のことですが、ここではバレエと関連付けたお話を中心とした、私のロシア生活に少し触れたいと思います。
ロシア生活からバレエを習うきっかけ
父の転勤に伴い私がモスクワで暮らしたのは東西冷戦時代の真っ只中、1974~76年のこと。ベルリンの壁が崩壊する(1989年)10年以上も前の頃です。
外国人居住用と指定されたアパートに住んでいて、そこには他にも日本人家族が数世帯いましたし、他国の方もいました。一般のロシア人は外国人との接触が制限されている上、西側の情報からも遮断されている時代でした。一方、外国人は一般のロシア人とは区別されていて、外国人専用スーパーマーケットがあったり、国外への旅行も比較的可能でした。
ボリショイ劇場でバレエやオペラを観賞する機会もしばしばありました。しかし、劇場は小さな子供はお断り、というのが当たり前。私は幼稚園児だったのでいつもお留守番で、両親だけが出掛けていました。
ただ、別の劇場で幼い子供向けのバレエの上演はあって、「雪むすめ」といったタイトルの演目を見に行った記憶はあります。
それから、同じようにモスクワに家族で住んでいた日本人の小学生の女の子がバレエ教室に通っていて、たまに見学させてもらいに行っていたのを覚えています。その子の家に遊びに行くと、面白がって私にトウシューズを履かせ、その度に私は足の指をキズだらけにして家に帰ってきました(バレエやってない子に履かせちゃいけませんよ)。
ご存知の通り、海外のバレエ学校は10歳前後で入学する仕組みで、あまり小さな年齢からバレエはやりません。ですから、ロシアにいた時に私はバレエを習っていないし、バレエを習う直接のきっかけにはなっていません。
私がバレエを始めるきっかけとなったのは、日本に帰国後7歳になってから、ロシアバレエに魅せられた両親が近所のバレエ教室に私を入れたことです。特に自分から習いたいと言ったわけではなかったし、他にピアノと水泳も習っていたので習い事のひとつでしかありませんでした。そしてバレエは中学受験のために小5で辞めてしまいました(その後大人になってから再開しました)。
ロシア留学ではご用心! 朝食はカーシャ
社会主義であったロシアでは、働く母親が多く、幼稚園(というか保育園に近い)は朝早く、朝食から始まりました。
朝食はカーシャ。ロシアのお粥みたいなもので、あまりおいしいとは言えないものです。調べてみると、「イネ科の穀物や豆類などを水、ブイヨン、牛乳などでやわらかく煮た、東欧の代表的な家庭料理」だそうですね(ウィキペディアより)。子供だったので牛乳で煮たのを食べていたように思います。
現在でもロシアにバレエ留学した日本人の子が、「寮の食事でカーシャが苦手」とよく聞きますね。そりゃそうだろうなあ~と共感してしまいます。ロシア留学を志す人は、カーシャにご用心です。
ロシアではバレエは特別な職業
言うまでもありませんが、ロシアにおいてバレエダンサーは生まれながらに条件に恵まれた身体と容姿を持つ人が、さらに訓練を受けてなることのできる特別な職業です(他の芸術家やスポーツ選手も同様)。もちろん国家公務員ですね。
プリンシパルにでもなれば国の至宝と称され、国家から勲章を授与され、一生の生活が保障されると言われていました。
当時、一般国民は質素な物しか手に入らず、自由な移動もできないのに、彼らはキラキラした衣裳を着て踊ることでお金がもらえ、それに海外公演に行けば国内では手に入らない物も買い物できる特権階級でした。
今のようにロシア人ダンサーが海外バレエ団に移籍する自由はなかったので、亡命するダンサーが多くいました。海外公演中にそのまま亡命した、というニュースをよく聞きましたね。
世界の人々とともに歩んでいけるように
ロシアで生活する中で、少なくともモスクワでは日本人ということで差別されたり危険な目にあったことはなく、人々は皆親切でした。日々労働者として働き、質素な暮らしをしつつ、芸術家に対しては大いにリスペクトする、そんな人々だった印象があります。
その後、民主化、自由経済化が進み、国民生活はかなり変化したと思います。それとともに芸術家に対する特別感も以前ほどはないのだろうと思いますが、それでもダンサーは依然として高いレベルを維持し続けており、一流のバレエ芸術に触れる機会を私たちに与えてくれています。
昨今のこの国の世界に対する行動は、50年前から何も変わっていないように見えますが、一般国民の生活や意識はもうそんな昔の時代とは違うはずです。
この国の人々が世界の人々とともに歩んでいける日が早く来ることを願うばかりです。